大切な大切な一冊
和菓子を作り始めたのはドイツに来て半年くらいたった頃でしょうか、今から16年くらい前のことです。それまではきちんとした和菓子を作ったことは一度もなく、もちろん毎週毎週のお茶のお稽古で使うためだけに作っていました。
ドイツにきたはじめのころは日本からお干菓子を送ってもらったりもしていたし、ドイツのベッカライ(パン屋さん)でバターアーモンドやクラムケーキなどを購入して小さく切って使用したりもしていました。でもそういうのが続くとお干菓子は色や形は綺麗だけど味にバリエーションが無いし、ケーキも大抵いつも同じで飽きてしまうのも早かったのです。
一年に一度定期的に日本に帰ることにはしていたので、その都度和菓子の本や材料を探し求めて少しずつ私の和菓子作りが始まりました。誰かに教えてもらおうにもドイツにいるし、インターネットはまだまだ普及していない頃で本当に本だけが頼りでした。
当時(1994年頃)は和菓子の本というと、職人さんが購入される専門的なものは詳しいけれど高価でカラー写真があまり入っていないもの、お菓子作りを趣味でする人のもの(これは写真がたくさん入っている)、老舗名店のお菓子と各流のお好みや菓子器との取り合わせを見るのが主なものに大抵分かれていました。
そんな中で
岩瀬菊女さんの「お茶の心をこめた 手作りの和菓子」を見つけた時、「こっ、これは!!」ととても嬉しかったのを覚えています。
岩瀬さんの本はその名のとおり「お茶で使う」ことを前提とし、季節ごとの主菓子・干菓子とその作り方が詳しくカラー写真で紹介されています。
白餡を作るのに豆の皮を手で一つ一つ剥いていったり、何度も何度も水で晒したり、砂糖からすり蜜を作ったりととても丁寧な作り方で、なるほど「心をこめる」とはこういうことなのかと素直に納得できます。
岩瀬さんの色彩感覚や取り合わせも、とても私の好みのものでした。
そしてこの本でもう一つお菓子の作り方と同じくらい重要なのは、後半に納められている岩瀬さんの「私の和菓子」という文章です。50歳を過ぎて大病の後に突如として茶事のための和菓子作りを思い立ち、試行錯誤を繰り返して行く様子は感動的で何度読み返したかわかりません。
少し抜粋してみますと :
とにかく試してみなければと、白いんげんであんを作ってみた。書いてあるとおりにしたのに、ベージュ色のベチャっとしたあんができた。真っ白に上がらない。見事に失敗であった。こうなると五里霧中。何度も何度も繰り返し、どうにかベージュ色を脱出したのは十月も半ば。茶事まであと半月しかない。
一つの菓子が完成するのに最低十~二十回は作ってみる。最初より二度目、三度目と進むにつれて進歩がなければならないと思う。安易に作れたものは気が緩むのか逆に失敗し、むずかしいと思うものは慎重に作るせいか上手にできるものである。
思うように行かなくて心が沈む夜は、家人が寝静まった後にただひとり水割りの氷のかすかな澄んだ音を聞きながら、目の前の砂糖のかたまりに向かって、「なんでできないの。なんで私の言うことをわかってくれないの」と、話しかけて過ごすことも多くあった。
失敗してどうにも使いようのない砂糖は、熱湯をかけてとかして流した。それも深夜だれにも知られないように。度重なるとだんだん砂糖がかわいそうになり、また湯をかけなければならなくなると、自然と涙が出てくるほどであった。いつの日か砂糖の供養をしてあげなければ、と思いながら、次はこうしてみようと、ますます菓子作りに魅せられていくのであった。
そしてこの本の中のもう一人の重要な人物、岩瀬さんの師である菅田健三氏(表千家)の存在も、この本を縦糸で結ぶ大きな役割を果たしています。
ある席で宗匠がこのしょうぶと、すはまだねで作った葉をお使いくださったときのことである。しょうぶを盛ったわきに葉が二、三枚、さらりと添えられている。私はアッと思った。宗匠の美的感覚のすばらしさにはいつも感心しているのだが、花が十個なら葉も十枚と考えてはいけないのだ。この使い方をなぜ今までわからなかったのかと、大変反省したものだった。
このあと「そのものの形になっていないで、それと思わせるものがよろしい」と、教えていただいた。
存命中は外出していても豆を剥く頃に帰ってきて一緒に剥いてくれた岩瀬さんのお父様、一切口出しをしない御主人、距離を保ちながらじっと見守り理解している菅田氏の存在。。。そういうものの集大成が岩瀬さんのお菓子なのだと思うと「お菓子ではあるけれど、お菓子だけではない何か」を感じずにはいられません。
引用が少し多くなってしまったのですが、この本はもう増版されていないようなのであえて書かせていただきました。出版されてもう20年が経っていますが「この本がいつの日かもう一度世に出て、多くの人に読んで貰いたいなあ」と今でも強く思い、願ってもいます。
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